久しぶりのブログ

週に一度くらいは思うことを書きたいと思いながら、大分日が経ってしまった。毎日これが書きたい、この思いを残しておきたいと思いながら、なかなか思うようにゆかないものだ。マレーシアは昨日、Good Fridayで休みだったので、週末の今日と明日とで3連休。マレーシアはイスラム教を保護している国なのに、キリストの受難の金曜を国民の休日にしているところがすごい。多民族、多宗教なのに紛争のない理由がこんなところにもあるのだろう。

さて、そういうわけで少しゆとりが出来た。久々のブログ、今日は外国からの支援と日本がしている外国への支援について少し考えるところを書こう。

この度の東日本大震災では、ものすごい広い地域が大きな被害を受けた。犠牲となった方や行方不明者の捜索、被災罹患者の医療、瓦礫の撤去、原発の事故関係、生活物資や義捐金等々、様々な形で国内外から支援を受けた。外国からの素早い対応が有り難かった。これまで日本が、どこの国であれ緊急災害時には即座に多くの支援をし長期援助もしてきたから、この度は逆に多くの国々から支援を受けられたのだという。本当に有り難いことだと思う。誰かが困ったときに即座に助けの手を差し伸べることは素晴らしい。私自身がほとんど何も出来ないもどかしい思いでいるだけに、世界中の国々からの支援を本当にありがたいことだと思う。

日本はこれまで、たいていの場合支援する側で、受ける側にはならなかった。多分、戦後の復興時を除けば、このような規模の大きい形で支援を受ける側になったのは初めてだと思う。その日本の支援・援助の考え方について、一言だけ思うところを述べたい。

経済大国となった日本は、様々な形で被災国支援や途上国援助をしてきた。大小様々なプロジェクトで、大きな貢献をしてきて各国から感謝されている。日本人として誇らしい。が、反面、何とも気恥ずかしく感じる部分がある。それは、日本からの支援のテーマが「顔が見える援助」であることだ。「顔が見える援助」とは、援助を受けた人たちが、日本(人)に助けてもらったとはっきり分かってもらえる援助をするということだ。だから、例えば建物が出来れば必ず日本からの支援だと看板を出し、物品を購入すれば日の丸のラベルなどを貼ることになっている。同時に、現地の人たちの反響(謝辞)を報告書に書くことが義務づけられたりする。これが顔が見える援助(支援)なのである。

これを私が気恥ずかしいと思うのはおかしいのだろうか。支援なり援助を受けたら当然のことなのだろうか。私は支援や援助は受ける側の助けになればよいので、誰がしたかはした側から言うことではないと思えてならない。受けた側が、誰がしてくれたのか知りたい時に隠す必要はないが、自分がしてやったと言わんばかりの考え方はどうであろうか。メインテーマとすべきことは、「顔の見える援助(支援)」ではなくて、「本当に喜ばれる援助(支援)」に尽きるのではないだろうか。

今回日本は、多くの国々のお世話になっている。多くの国々がそれぞれ自分の国がやってあげたのだと宣伝まがいのことをしているだろうか。マレーシアにいる私にはその辺りは分からない。もしいろいろな国の人たちが、自分に出来ることをし、住民と交流して帰って行ったのならば、そして長く続く復興と同じように交流が続くならば、本当の心の理解が深まると思うのだが、どうだろうか。

 

  

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